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壮絶な人生の中フィットネスを始めた理由【合田智子・インタビュー後編】

ABOUT US
笹森 大生トーキョーフィットネス株式会社 代表取締役
現役パーソナルトレーナーとして年間1,500本のパーソナルトレーニング指導を行うと同時に、「個々にあったジムを正しく選んでほしい」という考えから、当メディアを開設。 これまで、都内を中心に200店舗以上のパーソナルジム・フィットネスジムを取材。
<資格・実績>
NSCA-CPT(全米エクササイズ&コンディショニング協会認定パーソナルトレーナー)/トーキョーフィットネス株式会社 代表/Animal Flow Lv.1 Instructor/T-Fitness 事業責任者

元女子プロ野球・ソフト選手の合田智子(ごうだ・ともこ)さんのインタビューにて、スポーツモデルについてとフィットネスのメリットについてお話いただきました。
この記事では後編として、合田さんが特別な思いを持って、フィットネス業界で活躍されているその理由をお聞きしています。

合田智子さんの前編記事はこちらからご覧ください!

ソフトボール・野球選手としての生い立ちと、激太りを経験

インタビュアー
笹森大生

高校を出て実業団で2年間ソフトボールをやっていたとお聞きしましたが、社会人野球のように給料をもらいながらやっていたという感じでしょうか?

合田智子さん

そうですね!

そのあとは廃部になってしまったのですが、今までソフトしかやってきていなかったのでどうしようかなーってなりました。

ソフトをやらなくなって、食べるのと運動しなくなった時70キロまで太ったんです。他のアスリートもそうですが、ソフト選手も結構食べるじゃないですか。

インタビュアー
笹森大生

そこからどういう流れで野球を?

合田智子さん

そこからは太った自分が街歩いた時に友達に気づかれなかったんですよ。そのせいでプチ引きこもりみたいになり…。

それで、変えなきゃ!って思って独自でダイエットを始めて通常の体系に戻したんです。
その時って反動で色々なことをやりたくなったのですが、トレーナーになるきっかけもそこかもしれないです。

そこからは、109で働いたりとか、トレーナーの仕事もやりながらアスリートとしては9年くらいブランクがありました。

そのタイミングで女子プロ野球ができるということを知り、4ヵ月くらいで体作りや練習をしてトライアウトを受けました。

身体能力が高かったからか、なんとか合格ができました!

インタビュアー
笹森大生

そのタイミングで女子プロ野球が始まったのですね!具体的に女子プロ野球が始まったのはいつからなのでしょうか?

合田智子さん

2010年です。
2009年にトライアウトがあって、2010年、2011年プレイをしてそのあとアメリカに行ったりだとか。

日本に戻り、トレーナーとして再始動

インタビュアー
笹森大生

そこから日本に戻るにはどういったことがあったのでしょうか?

合田智子さん

帰国のきっかけはコロナウイルスの流行です。


最後はニュージーランドにいて、感染者が多くなってニュージーランドも途中でシーズンを切り上げようってことで急遽帰ってきた感じですね。

そこからはコロナの流行がひどくなる一方で、何か新しいことをできないかなと思ってボディメイクにハマりました。

合田さんが壮絶な人生を語る

インタビュアー
笹森大生

そこから再度トレーナーとして活動が始まるのですね!

たくさんの経験をしてきた合田さんですが、トレーナーとしての活動が始まる人生の中で、大変だったことやしんどかったことなどの体験談はございますか?

実の父親の死

合田智子さん

私の父親は2人いるんですよ。

本当のお父さんと育ての父がいて、実の父は私が2歳になる前に交通事故で亡くなって、父の上司と母が結婚したんです。

(育ての)父とは家族ぐるみで仲良くて毎年、(育ての)父の誕生日会を うちの家族がお祝いしてたらしいんですね。

(育ての)父親もその誕生日の日に、実の父親と待ち合わせをしていたのですが、その待ち合わせ場所に父親が来なかったので変な予感がしてちょっと戻ろうと思って戻ったら、赤いランプが回っていてそこに倒れていたのが実の父親だった。もう即死だったので、トラックに跳ねられたみたいです。

合田智子さん

私は2歳くらいだったので、実の父がいて、育ての父がいて、ということには気づいていなかったんです。

その話を聞いたのは中学に入る前で、しかもその話を聞かされる前になんとなく実の父親が夢に出てきてました。
知らないおじさんが抱っこしてるとか、野球のユニフォームを着て抱っこしてたりとか…

ある時、夢で高い所にある押し入れから道具箱が出てきて「やまざきともこ」っていうのを見つけたのを次の日に、実際に同じように開けたら出てきて、私の知らない誰かが抱っこしてる写真が出てきたんです。

でもなんか親近感が湧いて、その写真を机の上に置いてたら、母親が気づいて「すぐに座りなさい」と。(笑)

「 これだれか分かってる? 」「いや、分からないけど、夢に出てくるから。」というエピソードもありましたね。

母親の死

合田智子さん

そこから大人になり、女子プロ野球のトライアルを受ける一ヶ月前に母親も亡くなりました。

風邪も引いたことないくらい元気だったのが急に連絡が取れなくなって、父親も隠してたんでしょうね。

たまたま会いに行ったときに全然見た目が変わってしまっていて、肝臓の病気だったみたいです。

姉の死

合田智子さん

そのあと2年後に姉も亡くなって…。

元々姉は柔道でオリンピック選手を目指していたんですよ。 やわらちゃんとかと一緒にトレーニングとをしていて大学に入って2年目くらいですかね。
膝とかもボロボロで手術でボルトを入れてやっていたんですけど、本人も目標にしていたものが一気に閉ざされてしまって、そこから拒食症とか過食症、アルコール依存症になって自殺未遂もするようになったりと精神的に病んでしまっていました。

お医者さんからも「内臓関係もボロボロです」って言われてて、亡くなった原因は窒息死。

実は亡くなる1週間前に姉から連絡があって、「もし私が死んだらともちゃんが迎えに来てね」っていう電話だったんですよ。

「母親と同じお墓に入りたいから母親のお墓に骨を入れてほしい」っていうのを亡くなる1週間前に言われて、何言ってるんだろうって思いながら…

育ての父親の死

合田智子さん

そして、去年育ての父も癌が見つかり亡くなりました。

去年も私が出場する予定だったNABBAのJAPAN大会の2日前に父親が救急搬送されたって連絡があって、父親と話ができたときに「出なさい。そこが自分の目標でずっと頑張ってきたんだから今辞めたら絶対後悔するから。ただメダルは持って帰ってきてほしい」

って言われて、メダル持って帰ってくるねと約束をしました。

結局優勝はできなかったんですけど2位のメダルを持っていったらすごく喜んでくれて。「お前は俺の大谷だ」なんて言いながら(笑)

周りの死を経験して「自分は少しでも長く長生きしたい」

合田智子さん

周りに「死」っていうものが身近にあるので最初はコントロールするのがしんどかったですけど、一番母親が亡くなった時はもうダメージは大きかったです。

インタビュアー
笹森大生

切り替えとか、最初はどういう感情でしたか?

合田智子さん

母親の死は未だに立ち直れてはいないですね。立ち直るって多分死ぬまでないと思います。何かあるたびに思い出しますね。何かあるたびに夢に出てくるので。なにか変化があるときは、父親も出てきますね。 なにか辛いことがあったりとかする時も出てくるときは、頑張れ!とか励ましなのかなと思っています。

インタビュアー
笹森大生

今はどう向き合っている?

合田智子さん

悲しくなったら泣きます。受け止めます。あとは、家族の分まで1日でも1時間でも1分でも長生きしたいなと思いますけど。

今後の目標

インタビュアー
笹森大生

最後に今後のご自身の展望・目標があればお聞きしたいと思います。

合田智子さん

人生諦めてしまう選択肢もある中で、こうやってフィットネスにチャレンジして自分の目標もあって人生を保てているのはすごいとこだと思います。 周りの人に恵まれていると思います。サポートしてくださる方々や身近で応援してくれている人が周りにいるので本当に助かっています。

NABBAの韓国大会で勝ってプロになるのが去年からの夢で、NABBAのスポーツモデルは韓国大会が世界最高峰と言われています。
そこのアマチュア戦で昨年は優勝できたので、今年はプロ戦でTOP3に入ることが目標です。近未来でチャンピオンになりたいと思っています!

合田智子さん

またトレーナーとしても、ダイエットとか筋量アップだったりとか、諦めてしまった方とか逆に一歩を踏み出せない方々のお手伝いをしていきたい。トレーナーとして成功していきたいなっていう気持ちはあります。あとは今までの色んな経験を皆さんに伝えていくようなセミナーだったりとか講演だったりとかそういったこともやっていきたいなーって気持ちもあります。

私も若くないので同じ年齢層だったりとか、若い人から見てもああ…こういう大人になり
たいとか、こういうかっこいい女性になりたいという感じになりたいですね。

プロフィール

合田智子(ごうだ・ともこ)

小学校3年生で地元の少年野球チーム「仁連エンゼルス」に入団、男子と混ざって練習に励む。中学校からはソフトボールに転向。高校卒業後社会人のトップクラスである岩手東芝エレクトロニクスに入社。

※岩手東芝を引退後は、スポーツインストラクター(エアロビクス、ピラティス、その他)、スキーのインストラクター、スポーツデーターバンクのお手伝いをなどを務めていた。

2009年に日本女子プロ野球機構による第1回合同トライアウトを受験し合格、※同年12月のドラフト会議では、外野手1巡目で京都アストドリームスへの加入が決定した。 2011年末、アストドリームズからの退団が発表された。

その後はアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパ、中南米など全大陸でプレー。

(出典:wikipedia ※一部編集)